都会の人は冷たいのか? その疑問を解き明かす
Lesson1
私たちは不確かさを解消するために、他人の反応を伺う生き物。
この傾向が、集合的無知を引き起こす
他人の反応を伺うについては、他人を見て行動する私達で詳しく書いておりますので、ご覧下さい。
今回はそれらの人の傾向を踏まえて、『集合的無知』について学んでいきましょう。
集合的無知とは、現在おかれている状況が不確実で曖昧で、自分も周りも良く分からないのなら、誰一人として動こうとはしない・・・
そういった現象のことを言います。
ココがポイント
よく分からない状況におかれているときは、変に動こうとは思いませんよね。
つまりそれは、自分だけではないということにもなります。
自分は周りの様子を伺い、周りもあなたの様子を伺っているんです
そういった当たり前の事実を、みんなよく忘れてしまいます。
例を挙げてみましょう。
とある国で殺人事件が起きました。
そこに住んでいる若い女性が深夜の仕事から帰宅中、路上で暴漢に襲われ殺害されてしまった事件です。
殺人事件は決して見過ごしていいものではありません。
しかし、その場所は大都市ということもあり、記事の一番下に小さく載せられた程度にしか報じられなかったそうです。
「よくある話だ、気をつけましょう・・・」と、この事件はすぐに儚く消え去ってしまうかのように思えました。
が、この事件を捜査していくにつれて、驚愕の事実が浮かび上がりました。
なんとその事件は、大勢の人の前で起きていたのです。
路上で逃げ惑う女性を大勢の隣人達は、建物の窓際という安全なところから見ているだけで、警察に電話をかけることすらしなかったのです。
殺人が行われている間、警察に通報した人は誰も居なかった。
その後初めて、ようやく目撃者の1人が通報した・・・。
記事の見出しには、「善良な市民」である人々が何故警察に通報しなかったのか?」と大きく書かれ、この話の詳細を知った人のほとんどが衝撃と困惑を覚えました。
そして事件を目撃していた人々でさえ、困惑してしまっていました。
「恐ろしかったから」
「巻き込まれたくなかった」
という人も居ましたが、理由としては弱すぎますし説得力がありません。
何故なら匿名で警察に通報したりすれば、女性を助けられたかもしれないからです。
彼らが動かなかったのは、そういうことではありません。
本人にすら理解できない何かが、そこで起こっていたことになります・・・
この理由を、二人の心理学者が説明してくれています。
まずおそらく、この事件から報じられるのは、
「目撃者が多数いたのに、誰も行動しなかった」でしょう。
しかし、心理学者は
「多くの目撃者がいたので、誰も助けなかった」と考えています。
もっと伝えたい!
こう考えた理由は2つあります。
①助けられそうな人が他に何人か居れば、ひとりひとりの個人的な責任は少なくなるから。
「誰かが助けるだろう」
「もう助けてしまっただろう」
と、みんなが考えてしまうので結局誰も助けないという結果に陥ってしまう。
②社会的証明の原理である、集合的無知の効果が含まれているから。
多くの場合、緊急事態というのは必ずしも「これは緊急事態だ!」だとすぐにはっきりと分かるワケではないはずです。
例えば、
道に倒れている人が居たら、
「心臓発作で倒れているのか?」
「酔っ払って寝ているだけなのか?」
かもしれません。
隣の部屋が騒がしいのは、
「警察を呼ばなくてはならないぐらいの暴行が行われているのか?」
「カップルが痴話喧嘩しているだけなのか?」
かもしれない
痴話喧嘩だとしたら、あいだに割って入るべきではないですよね。かえって嫌な顔をされるでしょう。
このように、
不確実さがあるときには周囲を見渡して他の人々の行動の中に手がかりを求めるのが、むしろ自然な傾向です。
そしてここの落とし穴こそが、状況はみんな同じであるということです。
ココに注意
私たちは、落ち着いて取り乱さない人間であると人から見られたいと思っています。
なので、全員が平然を装って何気なく周囲をチラ見しがちです。
従って、人々の目に入るのは、
少しも慌てず、アクションを起こさないでいる人々の姿になってしまう・・・。
その結果、社会的証明の原理により
「今起きている出来事は緊急事態ではない」と解釈されてしまうのです。
これこそがまさに、集合的無知の状態です。
LESSON2
緊急事態が起こったとき、
「周りに人が多いと助かりやすい」と考えるのは基本的には誤り。
むしろ、たった一人の人が居合わせている緊急事態の方が、生き残る可能性が高いことが多い。
よく、「都会の人は冷たい」と言う人が居ますが、
集合的無知の存在を考えると、その主張はあまり正確とは言えません。
彼らが中々助けてくれない要因は、何より他の傍観者の存在にあるのだから。
ココがポイント
居合わせた人が、
「これは緊急を要する事態だ!」と確信をもってくれさえすれば、助けてくれないことはほぼないはずなんです。
そして緊急事態時に助けてくれる人は、多くの場合とても頼もしく温かい行動をしてくれます。
目撃者が「これは助けた方がいいのか?」などと状況に確信がもてない場合、目撃者は少なければ少ないほど良いのです。
周りに人が居れば、何もしない人が多くなる。
且つ、その周りに居る人の全員が初対面なら、尚更この傾向は強くなります。
では何故、
大都市であればあるほど、私たちは助けようとしなくなってしまうのでしょうか?
そのポイントは3つあります。
本当に都会の人は冷たいのか?
- 都市の方が騒がしい為、注意が散漫になりやすい。
ですのでこのような場所では、自分が遭遇した出来事をしっかり確かめるのはかなり難しい。 - 都市環境に居る場合、緊急かもしれない状況を目撃したとき、周りにはほぼ人がいる。
- 周りを見渡せば人だらけ。そして都市は小さな町に住むのと比べて、周りが知り合いである可能性はかなり低い。
状況が分からずに混乱しやすく、
人が密集しており、
周りが知らない人だと・・・
状況が緊急事態の場合は、助けられる可能性が低くなる・・・
ということになります。
ですので、しっかりと覚えておいてください。
ココに注意
人は集団になると助けようとしなくなる。
しかし、それは決して彼らが不親切だからではない。
「緊急事態が本当に起こっているのか?」
「行動する責任があるのか?」
ただみんな、そういう確信がもてないだけ。
今回一番伝えたかったこと
「ん?これは手を貸さなきゃまずい!」
そう確信できれば、多くの人はすぐに反応して助けてくれる!!
○最後に・・・
もし私達が何らかの緊急事態に陥ってしまった時
集合的無知の犠牲者にならない為に
まずは集合的無知の問題点を今一度洗い出さなければなりません。
とにかく問題なのは、状況が不確実であるという状態を作ってしまうことです。
なので、不確実性をいかに減らすかが重要になってくるはずです。
例えば・・・
あなたは夏の午後、好きなアーティストのライブに出かけました。
ライブが終わり、あなたと人々は帰り始めます。
その途中、あなたは急にひどい頭痛に襲われました。
「すぐにおさまるだろう」と、また歩き出したものの・・・
今度は視界がぼやけたり、全身に嫌な痺れを感じるようにもなってしまった。
「休まなければ」と、近くの木によりかかって座り込んだあなた。
座っても体調は良くならないし、ついには立ち上がることもできなくなってしまいました。
表情がおかしく、変な場所で座り込んでいるあなたに気付く人も居ますが、誰も何の関心も示してくれません。
立ち止まった人は居るものの、少し周囲の人の反応を確かめた後は何事も無かったかのように通り過ぎていきます・・・。
さてこういう緊急事態に陥ってしまったとき、あなたには一体何ができるでしょうか?
具合は悪くなる一方ですので、ぐずぐずしてはいられません。
助けを呼ぼうとする前に意識を失ってしまったら、更に助けが呼ばれなくなってしまうかもしれないのだから。
仮に呻いたり、叫んだりしても効果は薄いでしょう。
周りの人を緊急事態だと確信させるには、これだけだとまだ情報が足りない。
ただ注意を引いたり、助けが必要だと「気付かせる」だけでは不十分。
この場合、一番効率的で信頼できる方法は1つです。
人々の中から1人を選び、その人だけを見つめて話しかけて、まっすぐ指をさしてあげればいい。
他の人は無視です。
「はい、○○の服を着たあなたです。お願いします、気分が悪いので助けてください!」と。
たったその一言だけで、選ばれた人を「救援者」の役割を担わせることが可能になります。
助ける責任は、他の誰でもない。「自分自身なのだ」と。
もちろん必要なら、どんどん声をかけて「救援者」を増やしていくといいでしょう。
助けは伝染してくれますから、あとは他の人に任せていればなんとかなるはずです。
犠牲者になりたくないのなら、助けの必要性は、しっかり正確に伝えましょう
居合わせている人々に自分で結論を出させてはならないのです。
恥ずかしいとか言ってられません。
失敗すれば命を失ってしまうかもしれないから・・・!!
ココがポイント
本来自分自身がやらないといけないことは、
「周りがどういう行動をしているか?」ではなく、
状況をしっかり見極めることなはず。